10年間年収300万だった貫社長が描く「串カツ田中」の未来とは?(前編)

 

伊達:エードットジャーナルの中に、僕が尊敬している経営者と対談する「伊達の部屋」というコーナーがあるんです。1回目が元ローソンの玉塚さんで2回目がサイバーエージェント常務の小池さん、そして3回目にあたる今回、串カツ田中の社長である貫さんにお願いをしました。

「伊達の部屋」ではバラエティ豊かな経営者の方々を紹介していきたいと思っているのですが、その中でも外食産業と言ったら「ぬきんでて貫さん」だと思います。今回のインタビューでは貫さんの今までの人生や、串カツ田中というブランドがつくられた経緯、これからの串カツ田中が目指す夢や目標についてお話を伺えればと思います。よろしくお願いします!

 

〈株式会社串カツ田中ホールディングス代表取締役社長 貫啓二(ぬきけいじ)

1971年大阪に生まれる。1989年、高校卒業後にトヨタグループの企業に入社。1998年に退職し、個人経営でショットバーをはじめる。その後デザイナーズレストランを大阪や表参道に出店した後、2008年に串カツ田中の1号店を世田谷にオープン。今やフランチャイズも含め、全国に200店舗以上を展開するチェーン店となり、2016年9月には東証マザーズへの上場。さらに2019年6月には東証一部上場を果たす。その後も、全面禁煙や「新卒ルーキー店舗」など、串カツ田中ならではのユニークな取り組みを、いち早く行う企業として注目されている。

 

大阪生まれ大阪育ち。癖の強いサラリーマン時代。

 

伊達:貫さんは大阪の生まれですか?

貫社長(以後、貫):大阪生まれ、大阪育ち。小学校から高校まで大阪で、高校卒業後そのまま就職した企業でも勤務地は大阪でした。なのでずっと大阪にいましたね。親父は中卒で町工場の工員、母親はパートタイマーだったから、「いい大学を出ていい会社に勤めるのが幸せ」みたいな教育を受けてきたんですけど、僕が勉強嫌いやったってのもあって(笑)そのままトヨタグループの企業に就職しました。

 

伊達:その頃ってバブルですか?

貫:バブルの最後の方ですね。大阪の田舎にある、従業員も全部で20〜30人くらいの小さなオフィスで、10年間くらい働いてました。今思うと世間知らずでしたけど、とにかく負けず嫌いで、仕事はものすごく熱狂的にやってました。だからいろんな業務を経験させてもらいましたね。

 

伊達:熱狂的に仕事をされてたっていうのは、その当時、何か大きな夢があったとか?

 

貫:いや、夢なんてのはなくて、ただの負けず嫌いですよ。なんでも「負けたら嫌」だから、目の前に与えられた仕事を必死でやる。一応その当時はスペシャルの「S」の評価を10年連続でもらってはいましたけど、そんなのたかが知れてるんです。でも当時はそれが誇りで、がむしゃらに仕事してましたね。昔から目立ちたがりやで癖が強かったから、トヨタグループで働いてた時も茶髪のロン毛で出勤してたし、思いきりソフトドレッドみたいにして上司を驚かせたこともありましたね(笑)

伊達:まじですか(笑)でもそれが許されていたってことは、結果もしっかり残されていたってことですよね。さすがです。

 

仕事を遊びに。トヨタを辞めショットバー経営へ。

 

貫:そんなふうに仕事をしながらも、もうちょっとお金を稼ぎたいなと思って、今でいう婚活パーティーみたいなものを土日に主催しはじめたんです。当時はSNSがないから、フリーペーパーに広告を出したり友達同士で声をかけあったりして、サービス業というより社会人サークルとしてみんな楽しく遊びながらお小遣いを稼いでました。まあ結局のところ、高卒で地方ってなると、評価されたとしても限界が見えてくるんですよ。そんなんだったら「仕事が遊びになったらおもろいな」と思って、思い切って脱サラしてショットバーを個人で経営し始めたんです。

 

伊達:それがおいくつの時ですか?

貫:それが27歳の終わりくらいの時ですかね。そんな時に仕事やめて、借金して、お酒なら誰でもできるっていう安易な発想で店をつくったんです。だけど当時、自分はお酒一滴も飲めなかったし、お客さんも全然来ないしで地獄でしたね(笑)

 

伊達:それって約20年前ですよね。逆にすごいハートが強かったんですね(笑)

貫:中長期計画なんてない。楽しいことで生きていきたい。ただそれだけで何も考えず、自分1人で15坪のバーをはじめて1ヶ月くらい経った頃ですかね。幼馴染の紹介で田中(現副社長)がアルバイトで入ってきてくれて、その時に「今後の計画は?」と聞かれたんだけど当然何も考えていないんですよ。「嫁も子どももいるのに何も考えてないのはさすがにまずいでしょ」ってなって、初めてちょっと先のことを考えるようになったんですよね。それで当時、田中は広告代理店に勤めていて、最新の飲食業界のトレンドとかについても詳しかったから、ショットバーを始めて3年目くらいの時に、田中に色々教えてもらいつつ、6000万調達してデザイナーズレストランを大阪につくりました。

 

伊達:ショットバー始めて3年で6000万調達できるってすごいですね。

貫:トヨタグループにいた時に、息子くらい可愛がってくれた上司がいて、その人から退職金を全額貸してもらったりしました。資金調達してる時に向こうから声をかけてくれて、「なくなるかもよ」と言ったら、「なくなったらいいよ。なくならなかったら返して」って言って貸してくれたんです。

 

伊達:ということはやっぱり「こいつはできる」と思われてたんでしょうね。

貫:その時は「仕事を一生懸命やってきて良かったな」って思いましたね。適当な仕事をしてたら、絶対にお金なんか貸したくないじゃないですか。一所懸命やってるやつじゃないと支援なんかしない。だから「一生懸命やっていれば、どこかで誰かがちゃんと見てくれているんだな」っていうのはほんまに思いましたね。

 

 

借金まみれで始めた表参道のデザイナーズレストラン

 

貫:そんなふうに資金調達しても、結局のところ場当たり経営だったので、当時の財務バランスなんて大変なものでしたよ。しかも銀行に信用がないから、借り入れしても短期間で返さないといけなくて、利益が出てもキャッシュが残らない。その後も、1億借金して新しく表参道にデザイナーズレストランを出して、僕も田中も365日休みなく働いたのに、相変わらず手元にキャッシュは残らない。その時は「借金返すために事業やってるのかな?」って気持ちになりましたね。

 

伊達:それがいつの話ですか?

貫:いつとかじゃなくて、もう10年間くらいそんな感じでした。その間もずっと、僕と田中の年収は300万。でも楽しかったんですよね。東京進出した時なんか僕は家すらなかったから、店に寝泊まりして、表参道の銭湯に通って、服は制服を着て、っていう生活。田中もほとんど家に帰ってなかったと思いますよ。

 

伊達:田中さんはその時から副社長として仕事をされてたんですか?

貫:副社長ではなく、ずっと社員として店長をやってました。僕らよりも料理人の方が給料が高くて、僕らはアルバイトを飲みに連れていく金すらなかったんだけど、カメラマンとか役者を目指すアルバイトたちが住む風呂なしアパートに、大量の缶ビールを持って行った時にはすごい喜んでもらいましたね。そいつらとはいつも、仕事が終わった後にまかないを食べながら夢の話ばかりしてました。

 

伊達:その時に、貫さんがみんなに語る夢ってなんだったんですか?

貫:夢っていうのは特にはなかったです。だって中長期計画ですらなかったから(笑)だけど「仕事っていうのは情熱的に魂捧げたら何か絶対答えが見つかる」みたいな話はずっとしてましたね。その時の働き方なんてすごいブラックで、金もないから何もしてやれなかったけど、それでもアルバイトのみんなはすごい一生懸命働いてくれたし、今でもそいつらとは飲みに行くような仲なんです。その時カメラマンを目指してたやつも、今ではカメラだけで飯が食えるようになったし、役者を目指してたやつも役者一本で飯が食えるようになったんです。それってすごい嬉しいことですよね。

伊達:めちゃくちゃドラマチックで良い話ですね…。

 

 

リーマンショックで倒産の危機。その時生まれた奇跡の串カツ。

 

貫:もともと田中とは「流行り廃りがあるようなものじゃなくて、一生食べ継がれるようなものに命を捧げていきたい」という話をしていたので、デザイナーズレストランをやっている時もずっと串カツの研究はしていました。でもなかなか理想の味に近づくことができないまま、2008年にリーマンショックが起きてしまい、流行りに乗ってやっていたデザイナーズレストランも雲行きが怪しくなってきてしまったんです。いよいよ倒産しそうだから荷物をまとめて大阪に戻るぞという時に、田中の親父さんがつくった串カツのレシピが、引っ越し準備をしていた田中の家から出て来て、それをもとに串カツをつくってみたら、これが本当にうまかったんですよ。だからラストチャンスだと思って「潰れる前にもう一回だけやる?」って言って、そのレシピを頼りに串カツ屋を世田谷に始めたんです。それが串カツ田中のはじまりですね。

 

伊達:じゃあ苦肉の策として、串カツ屋をはじめたわけなんですね。

貫:そうですね。物件も探しはじめてから1週間で見つかって、角で、居抜きで、大家さんもすごい良い人で、手作りでやったら安くできるんじゃないかと思って、300万でお店をつくりました。

 

伊達:300万で店ってつくれるんですね。1店舗目からものすごい繁盛したんですか?

貫:もう死ぬほど繁盛した!最初オペレーションもめちゃくちゃだったから、飲食経験のあるアルバイトの人たちにオペレーション方法とかを尋ねながらやってましたよ。それに最初は串カツの値段しか決まってなくて、一品料理の値段を決めるのも、実際にアルバイトに食べてもらって「これなんぼだったら嬉しい?」って聞いて決めてましたね。今でこそちゃんと決めてますけど、当時は原価率なんて考えてなかったし、「お前らの食べたい値段で、行けそうならそれで行こう!」って感じでした(笑)

 

伊達:串カツのお店をはじめた時、「これは案外いけるかもな」って思いました?

貫:いや、全く思ってなかったですよ。「田中がやりたいって言い続けて来た串カツがついにできるな」っていう思い出づくり。でもその思い出づくりもうまく行かなければ、倒産一直線。全ての終わりを意味してましたね。だからオープン初日のことは、忘れもしませんよ。初日はたしかに夕方4時オープン。その時、契約先だったビールの担当者が1人だけ来て、「こんなとこお客さん来ませんよ」って言って、2000円くらい使って帰っていったんです。その後、待っていてもお客さんが全然来なかったから、「ああ、もうこれで本当に終わるんだな」って思ったんです。でもね、人間って不思議で、これで終わるんだって思ったら、それこそ雪山で遭難した人みたいに、ものすごい眠気が襲ってくるんですよ(笑)

 

伊達:まじですか(笑)

貫:で、店立ちながらも眠気ですごいフラフラしちゃって、「ああ、もうダメなんだ。俺のやってきた10年間はこれで終わるんだ」って思って、厨房の中で座り込んでうとうとしてたら、7時くらいにドバーッと人が入ってきたんです。今でいうと大した売り上げじゃないけど、売れたことにほっとして、次の日もどうかなって思ってたら、また7時くらいから人がたくさん入りだして…。「ああ、今日も売れた。よかった。」っていう毎日を過ごしてたんだけど、日に日にオープン前から人が並びだすようになって、3ヶ月後には土日もオープン前から二回転分くらい並ぶような店になってたんです。その時はじめて「飲食ってこんなに当たるんだ」っていう経験をして、これからは串カツ一本でやっていくぞと腹をくくって他の店を閉めたんです。

 

伊達:それから、串カツ田中の全国展開が始まったわけですね。

 

〜後編につづく〜